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仕事熱心では無いこの国を象徴するように、19時を過ぎるとビル内はガランとしています。 タバコを吸いに行こうと、人の気配を感じないトイレへ一歩踏み入れると、茶色のデッキシューズが真ん中の大便ブースの隙間から見えました。 
藤川さんだ!! 
トイレットペーパーを分けて使う、そんな僕達の友情。 足音を立てないようにその場を立ち去りました。 僕の隠れた優しさに藤川さんはいつの日か気づいてくれるのだろうか? 
このページを見てるのですぐに気づくとは思うですが、彼は昨日から風邪を引いてお休みしています。 なんでも熱っぽいとのことで、仕事上のことで彼の携帯に電話しました。
「ところで、体の具合はどうなの? なんか声ヤバイね」
「なんかさー医者でもらった薬飲んで、かえって調子悪くなったみたい」
「ふーん。あのね、明日会社来るの?」
「今日も良くなってれば午後から出ようと思ったんだけど、明日はたぶん出るよ」
「そう…。なんかこんなこと言っていいのか分からないんだけどね、思いっきりSARS疑惑かかってるよ。 日本に送る日報だってどういう風に表現していいか悩んでさー。 『体がほってったので休みました』とか返って逆効果?みたいな…。 もし会社くるんだったら、HIVを抱えて復帰したマジックジョンソンをカールマローンが『おいおい、いいのかよ』っていう視線を浴びることになると思うんで…」
「おいおい。ふざけんなよ。病院での感染率高いっていうからマスクして行ったら、なんだよ! 俺しかマスクしてなくてみんなに注目されたよ」
「俺、信じてるから…」 
「おい!」
「いやいや、大丈夫、信じてるから。 風邪、早く治してね。あ、無理しなくていいからね」
ガチャ
 
僕の彼女と藤川さんの彼女が偶然にも生年月日と血液型が一緒なうえに、雨の日に同じ傘を持ってくるという運命めいた仲なので、SARSくらいで僕たちの友情は崩れないはず。 しばらく近寄れないけど。
 
***26日更新分***
数時間後、ここのオフィス責任者がしつこく藤川さんのことをアレコレ聞いてくるので、渋々藤川さんにまた電話です。 
「たびたびごめんね。 あのぉ、すごく聞きづらいんだけど…、そのー、ジャックがね、藤川さんはどこの医者に行ったんだって…。 あ、勘違いしないで、俺は疑ってないし、ほら、会社としては……ってことだと思うんだけどさあ…」
「まじかよーーーー。 ちょっとちょっとー、あれこれ脚色して話おおきくしてない?」
「してないって! ほんと会社今大変なんだってば。毎朝全員検温することになったんで、熱下がるまで来ないほうがいいって」
「まじかよー。えっと、〜〜の〜〜って医者」
「おっけ。了解。もし隠さないといけないこととかあったら今のうちに病院に連絡入れといてね」
「おいおい。だから…」
「あの、もし良かったらなんだけど、自宅にね、マジックジョンソンがHIVになったときの苦悩を克明に打ち明けた伝記本あるけど取り寄せる? なにか参考になるかもよ」
「だから、いらないって!」
「でも、まじで全快するまで会社来ないほうがいいってば」
「いや熱下がったし、明日行くから。検温すんでしょ? 身の潔白が証明できんじゃん」
「でもその声でしょ…。来るんだったら夕方とか、誰もオフィスにいないときのほうがいいよ、ほんと冗談ぬきで」
「そんなアレなわけ?疑ってるの、みんな?」
「俺、藤川さんを信じてるから。早く風邪、治してね」
ガチャ

 『SARSに負けないで!!』と大きくマジックで書いた色紙に、スタッフ全員の寄せ書きを集めて部屋のドアの隙間から入れるイタズラが、ギャグとして通用しなくなりました。 国境の、シンガポール側にはヒートセンサー、マレー側には医者100人待機。 
日本サイドのオフィスでさえ、僕らが藤川さんをかばっているかのような、そんな疑いまでもつ人が出てくる始末。 仮に「マレーシアで邦人がSARS」なんてニュースで流れようもんなら偉い騒ぎになりそう。 
ほんと、絶妙なタイミングで風邪をひいただけなのに、まわりの反応とは怖いものだとつくづく思いましたよ。 こんなこと一年もすれば笑い話なんでしょうけど。
笑い話だといいんですけど。
 
**メモ**
2週間前、彼が代表して『SARS危険地手当てをよこせ』という請求をしたんですけど、お前が危険だろってツッコミを喰らいそうです。